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原 石 編

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2004年1月号【方孔石】
2004-01-01
【方 孔 石】
【石】副題“昭和雲根誌”は、故益富寿之助博士が木内石亭(江戸時代後期)の著した雲根誌に倣い新しく著した愛石の書で、雲根誌の他“本草書”“石雅”からも品用紙、新しく記載し直している。また“新載”となっているのは、博士が新たに取り上げてその魅力を記述したものである。博士はその著の巻頭で次のように記している。
“若しこの書が広く一般の人々に読まれて、これまであまり関心をもたれなかった石ころに対して、興味をもっていただけたなら編者の喜びはこれに優るものはないのである。”と。
方孔石はその新載の一つであり、そこでは『玄能石の仮像』とされている。写真左
その中で
「明治三十三年の夏、地質調査技師の大築洋之助氏が東京を立って仙台に出張の際、この石が何人かによって拾われ何人かによって方孔石と名付けられて仙台にはこばれていたのにめぐりあったのである。これがこの石と地質学者との初対面で、間もなく学会誌に“陸前の方孔石”と題して紹介されたので、この石の名は漸く人々に知られることヽなった。・・・宮城県萩の浜の西方田ノ浜、牡鹿郡郡女川町尾浦の東浜・東風浜等に転石群として存在し、大小不定の円礫ないしは亜角礫で、これに菱形の孔が一方から他方に大体直線上に貫いている。この菱形の孔の大きさには何の規則性もなく、ごく小さいものもあれば、長径二センチに達する大きいものもあるが、普通五ミリ以下である。菱形だから孔の内角は広狭の二角があるわけで、広角の方で大体110度位である。」と述べている。
この奇石は、中生代ジュラ紀の凝灰質頁岩中に生成したもので、層中から外れたものが波に磨かれて海岸に打ち寄せられている。この本が書かれたのは昭和42年のことであるから、その後の研究でその石の正体も当時とはいくぶん変わってきたが、そんなことよりこの小石はなんとも愛らしくその穴の部分にあったはずの石の方に想いがいく。正に主が留守の住居のようだ。このような状態の石を『ヌケガラ』ともいうが、写真右側にあるヌケガラはより大型である。方孔石が東洋風なのに対して西洋風である。まるで反映を誇った町の古城のようだ。この城壁は『石英 Quartz』で構成されている。大型の四角い穴がまっすぐに貫いて方々にむけて穴を空けていて、こちらは本当に“方孔”だ。
ではこの方孔の主はだれだったのか。このような形状を残して住居を留守にするのは『重晶石 Barite(BaSO4』だと考えられている。重晶石が群晶状に成長した後に鉱化作用で石英が浸透し、硬化後に重晶石だけが解け去ってしまったようだ。あぁ、兵どもが夢の跡か。
写真左側の方孔石は宮城県牡鹿郡東浜産、右側はミナスジェライス州産のもの。
 
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